日々これ上々

なにげない毎日のささやかな事件?を記録します。

2泊3日、広島旅行に行ってきました!③

ようやく最終日!
なかなかに盛沢山の広島旅行です。

2日目に見学予定だった平和記念資料館ですが、

3日目にずれ込み、
とにかく15時の新幹線には乗らねばなので、

本川小学校は諦め、
とりあえずホテルをチェックアウト。

 

平和記念公園

荷物をホテルに預け、
ホテルから徒歩2分の平和記念資料館へ!

9時に入館して、11時半までじっくり見学しました。
予想していましたが、予想以上に目をそむけたくなる写真なども展示されていて、
やはりもう2度と核爆弾を使ってはいけないなと強く思いました。

「使われなかった履歴書」という展示物があり、妙に印象に残っています。

被ばくして寝たきりになり、

「早く良くなって、働きに出て、皆をもっと楽にしてあげるからね。」と弟たちに言い続け亡くなった女性の書いた履歴書。

すごい人だなーと。

今の世の中、自分も含め、自分自分言い過ぎなのでは?と思ったり。

自分の小ささを否が応でも再確認。嫌になっちゃいますねー。

ともかく、じっくり見学出来て良かったです。

にしても、この建築、あまり深く考えず、最近のものかと思っていました。

だって、ものすごくモダンでカッコいいから。戦後すぐに作ったにしては立派で、でかい。物資不足の中で作られた感じがしない・・・。

ところが、この平和記念公園、割と戦後すぐ計画が作られたんですね。

誰が建築するかはコンペで決めたそうなのですが、年表を見てみると昭和24年にはもう丹下健三の設計が採用されたとあります。戦後4年。

私の母は昭和24年生まれですが、お友達の口に卵の黄身がついていたら、

「卵を食べたんだな」と羨ましかった話を聞いたことがあります。

そんな時代に、この建物の設計をするって、なんだか次元が違いすぎる。

実は、資料館の最後のコーナーで息子が鶴をおりたいというので、鶴の折り方をボランティアの方に教えて頂いたのですが、その方が公園の案内をして下さるというのでお願いしました。

 

というわけで、このボランティアの方と公園を回ったのですが、

2人で見ていたら気が付かなかったことなど色々教えてもらえ、良かったです。

ちなみに丹下健三さんの設計だということも、ボランティアの方に聞いて初めて知りました・・・(無知ですみません)。

上の写真のテレビでよく見る慰霊碑も屋根の中にちょうど原爆ドームが収まるように、

道路からこの慰霊碑まで少しずつ勾配を下げて作られているそうです。

慰霊碑に近づくにつれてどんどんドームがこの屋根の中に納まって行きます。

すごいですねー。

息子が「どうして資料館の1階は無いのか?」と公園についた瞬間に私に質問していたので、ふと思い出して聞いてみると、

「いい質問です。道路からも慰霊碑が見えるように、景色が抜けるように設計されています。」と教えて頂きました。

やっぱり何事にも理由があるものなのですねー。

色々ネットで調べてみると、この建物はこの公園へのゲートの役割もあるとのことです。

そもそも、丹下さんは、愛媛の今治市出身で、今治の中学を出て旧制広島高校に進学していたそうです。へー、初耳。

終戦間際、父親の訃報を受けた丹下さんは今治の実家に向かい、その道中(尾道で汽車から船に乗り換える時らしい)で広島全滅の報を聞き、そしてたどり着いた今治では広島と同じ8月6日に空襲を受けて壊滅。そして、残されたお母さんも亡くなっていたそうです。

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終戦直後、戦災復興院の委嘱をうけたとき、私は率先して広島担当を申し出た。当時、草さえも一本も生えぬであろうなどとうわさされていた広島だったが、私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に、父母をほぼ同時に失ったそのときに、大難を受けた土地であることに大いなる因縁を感じていたからである。
丹下健三・都市・建築設計研究所サイトより引用)

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当時は広島に対しては色々な噂があり、広島行きをためらう人もいる中、

丹下さんは大学のスタッフを連れて焦土と化した広島に乗り込み、

まず復興都市計画の立案、ついで世界平和記念聖堂コンペ、

本作のコンペと関わっていったそうです。

設計するには現場に行かないわけにはいかないので、

本当に「死んでしまうかもしれないな」という覚悟の上で設計したのでしょうね。

なんだかじーんと胸を締め付けるものがあります。

 

ちなみに慰霊碑の屋根の下の石の箱には、亡くなった方の名簿のノートが仕舞われているそうです。

年に1度、日向干してお手入れするのだとか。

その中に1冊だけ真っ白のノートがあるそうで、

ボランティアの方が「どうしてだと思う?」と息子に質問すると、

「名前が分からない人も沢山いるから??」

と正解を答えていました。

考えている時間が長かったので、自分なりに考えたのでしょうね。

 

原爆ドームが慰霊碑の中の風景に納まるという話を聞いて、

おぉっと思った私は、

慰霊碑の写真を撮ろうとカメラを構えたところ、

息子から、

「お墓のようなものだから、写真は撮らない方がいいんじゃない?」

と言われ、いやいや、本当にその通りだなーと思ったり。

いい子やなー(親バカ)

私の人としての品性とは・・・。

でも、このセリフを聞いて、息子にも何か思うところがあったかなーと

思いました。

というわけで、上の写真は全て私が撮ったものではありません。

色々なところから頂いております・・・。

 

最後に、ボランティアの方が原爆ドームとの記念写真を撮ってくださいました。

どんどん戦争を知る世代がいなくなる中で、こういうボランティアの方が後世に伝えて行こうと頑張って下さっているんだなと思いました。

前日には長崎で活動し、今日は広島、次の日には九州、わがふるさと小倉に研修?に行くのだそうです。

小倉も原爆投下の候補地でしたから、色々勉強をするために行くような話をされていました。

小倉は原爆投下の日、お天気が悪くて、標的が長崎に変更になったという話は子どもの頃から良く聞いた話です。

 

というわけで、盛沢山の広島旅行もこれにて終了。

駅前のジュンク堂で新幹線で読む本を買いこみ、

お昼をカフェで食べ、ちょうど30分前くらいに新幹線のホームに到着。

息子、新幹線の中でよだれを垂らしながら爆睡していました。

本当に猛暑の中の旅行でしたが、

でも楽しくて、実のある旅行となりました。

 

長々と読んで下さり、ありがとうございました。