日々これ上々

なにげない毎日のささやかな事件?を記録します。

いちいちうるせえ

皆さんにはスカッとした気分になりたい時に読みたくなる本はありますか?
私はあります!!!

じゃーん!!!

佐藤愛子さんの「九十歳。なにがめでたい」です。
少し前ですが、ベストセラーにもなっていましたよね。

この本、息子の幼稚園時代に読んだのですが(色々悩みすぎて老け込んでいた)、
「細部、気にしすぎだ。私。」と私を正気に戻してくれた本です。
並べていいのか分かりませんが、この佐藤愛子さんの本と、
河合隼雄さんの「Q&Aこころの子育て 誕生から思春期までの48章」は育児に悩む母必読の書だと私は思っております。
結局、この2人、言っているのは同じこと、みたいなところがあります。

「九十歳。なにがめでたい」は子育てのことが書いてあるわけではないのですが、
佐藤愛子さんの物事を見つめる視点が、「よっ!その通り!!!」と合いの手を入れたくなるほど、
私が本来大切にしたいと思っていることや、自分の両親の育児、
人間の持っている不完全さみたいなものを思い出させてくれるのです。
で、総合的に、なぜか元気が出てる。

というわけで印象に残っていてたまに思い出す章をご紹介します。

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子どものキモチは
今から十一年前、こういう出来事があった。
愛媛県今治市の小学校で、6年生の男子がサッカーボールを蹴っていたところ、
ボールが校門の扉を越えて、ちょうどオートバイで走って来た老人に当たりそうになった。
老人はそれをよけようとして転倒し、足を骨折し、入院。それから1年4か月後に肺炎で死亡した。
すると老人の遺族は少年の両親に5千万円の賠償を求めて提訴した。
少年の両親が監督義務を怠ったという理由である。
それに対する判決は一審ニ審共に両親の監督責任をみとめ一審千五百万、二審は千百八十万の賠償を命じた。
何ともおかしな話である。少年は校庭でサッカーをしていた。道端や公園でしていたわけではない。サッカーは手を使わずボールを蹴るスポーツであるから、当然のことをしていたわけだ。それがなぜ親の「監督不行届き」になるのだろう?
・・・(略)
我が国には昔から「運が悪かった」という言葉があり、不慮の災厄に遭った時など、この言葉を使って諦めて耐えるという「知恵」を誰もが持っていた。
・・・(略)
悪意のない事故も悪意のある事故もゴチャマゼにして元を取ろうとするガリガリ亡者はいなかった。今はそのガリガリ亡者の味方を司法がしている。
・・・略
司法は人間性を失った。
情を捨て、観念のバケモノになった。
何でもかでも理非を問わず被害を被った立場の味方をすべしという規約でもあるのですかと問いたいくらいだ。
・・・略
これではうっかりボールも蹴れない。投げられない。
・・・略
その一方で「子供の気持ちをわかろう」とか「子供の主体性を認めよう」とか「子供をのびのび育てよう」などとしたり顔の教育論が氾濫している。
のびのびボールを蹴ったらこのさわぎである。

しかしこの春、事件から十一年を経て、事件は漸く最高裁によって正しい判決が下された。
「危険がない遊びなどで偶然起きた事故なら責任は免れる。」という初判断が示されたのである。
この国の司法にもまだ良識が生き残っていたのだ

・・・略
無罪報道の後で読売新聞はこんな「識者のコメント」を掲載している。
「この年齢の男児のキック力や精度を考えれば、ボールが門扉やフェンスを越えることは考えられたはずだ。
学校側がゴール裏にネットを張ったり、ゴールを道路側でない所に置いたりしていれば、ボールが外に飛び出すことを防げたかもしれない。」
そこで学校はゴールの位置を動かすなど市、教育委員会は「今後も学校施設の安全管理を徹底して行ってまいりたい」と語ったという。
ナニが「行ってまいりたい」だ。そんなことはどうだっていい。そんなことより、少年の心のうちを考えるべきだ。
損得よりも寛容な心を持つ人間が増えさえすれば、起る問題ではないのである。
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いちいちうるせえ

いちいちうるさい世の中である。
・・・略
ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、「ニンテンドー3DS」を真っ二つに折って壊した。平日はゲーム禁止という決まりを九歳の息子さんが破ったからだという。
その顛末を高嶋さんが新聞のコラムに書いたところ、忽ちネット上で大炎上した。それを「ゲーム機バキバキ事件」というそうだ。
・・・略
要するに当節は興奮すると味噌もクソもいっしょくたにして文句を楽しむ人がイチャモンをつけて溜飲を下げる趣味というか、生き甲斐というか、いや、
流行性の病のものというべきか。イチャモンつけの元祖である私でさえただあっけにとられるばかりである。
高嶋ちさ子さんのキモチ、約束を守らなかった息子さんに腹を立ててゲーム機を二つに折った気持ち、私にはよく分かる。普通の母親であれば誰だってカンカンに怒る。それが母親というものだ。母親にとっては子供は自分の血を分けた、切っても切れぬ分身である。
こういう人間になってほしい、こういうことはしてほしくないと常に願っているのは分身ゆえだ。
他人の子供ならば「あんなことしてる。しょうがないねえ」ですむが、母親だから怒りに火がつく。
怒るなといっても無理だ。それが母親というものなのだから。
・・・略
それぞれの親からそれぞれの子供が育っている。こうしたらこうなる、ああしたからああなったというのは結果論であって、
「親の心得」についてなんぞ、ことごとしく正論をぶったところでどうなるものでもない。親はしたいようにすればいい。するしかないのである。
高嶋さち子さんがゲーム機を二つ折りにしても私は、バカボンのパパのように、
「これでいいのだ・・・・」というだけである。
・・・略

この頃この国を、やたらにギスギスとして小うるさく、住みにくくいちいちうるさく感じるようになっているのは、
何かにつけて雨後の筍のように出てくる「正論」のせいで、しかしそう感じるのは私がヤバン人であるためだということがここまで書いてきてよくわかったのである。
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いや、本当、そうなのよ。
識者のコメントもそうだし、
コンプライアンスとか色々いうけどさ、
もちろん大切なものもありますが、
実は芯がない感じがするというか、
なんていうのでしょうね。
損得勘定ばかりでモラルがなかったり、事なかれ主義だったり。
わかります??
事が起こったあとに、
正論をいうなんて、簡単なんですよ。

なんでも「対策を」とか言ってるけどさ、
100%は無理なのよ。
いつも上手く行っているのは、
その裏で人が頑張っているからで、
でも、人は完ぺきではないから、
たまには失敗するものなのよ。
機械だってたまには故障しちゃうのよ。
便利になりすぎるとそのことを忘れてしまうというか。
感謝の気持ちを置いてきちゃうというか。
そしてどんどん窮屈になっていく・・・。

そう、私もヤバン人なのかもしれないのですが、
この本を読むとなんだかスッキリするのであるー。